1964年卒 医学部医学科 
平岡 昌和先生

(ソフトテニス部元顧問,東京医科歯科大学名誉教授)

軟式庭球部からソフトテニス部への軌跡

私は1958年本学に入学、当時の軟式庭球部(軟庭部)に入部し6年間楽しい学生生活を満喫した。卒業後も30年以上にわたり部の顧問(部長)としてこの部の活動にかかわってきたが、その間に部の名称も軟式庭球部からソフトテニス部となる変遷の歴史と水野先生とのかかわりを振り返ってみたい。
我々12回生は本学教養部第1回生として入学したが4月には国府台教養部が完成しておらず12月までの8か月間お茶の水の旧歯学部地下室で過ごした。当時は8階建ての医学部病院棟、木造2階建ての外来等、古い4階建ての旧歯学部棟と学部本館の間に軟式と硬式テニスコート各1面があった。軟式テニスは、昼休みには学生・事務職員が一緒になってボールを打ち合う盛況であった。毎年7月には学生・OB・職員が参加する全学テニス大会、11月には学生・OBによる学内選手権大会が行われていた。軟庭部に入部したのはテニスコートがあり部の雰囲気も先輩・後輩が分け隔てなく和気藹々と練習するところが気に入ったからである。1年生の夏合宿に初めて参加し、その時歯学部6年生の中野克明先輩に親しくしていただいた。豪放磊落で常に冗談を言いながら練習に取り組み、暑い夏の京都での練習のつらさを忘れさせてくれた。その中野先輩が約1か月後に地元川越の親友4人とドライブ中に事故で亡くなられた。一人息子を亡くされたご両親は大変悲しまれるとともに、“息子が大好きなテニスを続けた軟庭部に寄付をしたい”とのお申し出をいただいたのである。そこで秋開催の学内選手権大会を“中野杯争奪テニス大会”と名称を変更し行うこととなり今も“中野杯”として続いている。ご両親は中野杯への寄附だけでなく、毎年大会前には新執行部のメンバーをご自宅で夕食に招待して歓談され、この慣習はご両親が亡くなるまで10年以上続いた。
軟庭部は創部当初から医歯大リーグでは強豪校として鳴らし、我々の頃は第3期黄金時代と称していた。国府台での教養部が始まるとテニスコートの草取りやライン引き・ローラーを引いてコート整備をしながらの練習が思い出される。6年生の時はメンバーもそろい東日本医科体育大会(東医体)での優勝を目指していたが、準決勝で敗れて3位に終わったことが忘れられない。この時の優勝校は慶応であったが、あとで聞くと慶応も東医体での優勝をひそかに狙っていたが、医科歯科との春の定期戦で2-3のスコアで敗れたため大会前に猛練習を行って栄冠をつかんだとのことであった。やはり強くなるためには猛練習があるのみを実感させられた苦い思い出である。
卒業後内科の大学院で4年間臨床と研究に従事しながら軟庭部部長として夏合宿やコンパに参加していた。私は1969年春に米国シカゴ大学に留学のため日本を離れたが、その前後日本全国で学生運動が過激化し、東大安田講堂に機動隊が突入する騒乱となった。本学にも学生運動の波が及び血気盛んな当時の軟庭執行部の多くがデモに参加し、部の活動が消滅しそうな状況を迎えたとされる。この危機的状況を救ったのはこの頃入学してきた須田英明(歯学部第2保存・名誉教授)・腰原偉旦組で、少ない部員と猛練習を重ねて実力を蓄えて部の存続に寄与した。1972年暮れ私は米国留学から帰国して欠員であった軟庭部の顧問に就任し再び後輩諸君と軟庭に接する機会を得た。この頃には国府台キャンパスの整備も進み、テニスコートも立派になり練習環境が格段に改善された。忘れてならないのは当時教養部生化学の故村松敏夫教授が教養部軟庭部部長として自らもコートに立って練習に参加し、部員の悩みや心配事を精神面で支える役割を果たしていただいた。また、この前後の思い出として、夏の合宿は毎年違う場所で行っており執行部にとって夏合宿の場所を選ぶのに苦労した。ある年にはテニスコート完備と聞いて到着してみるとコートの真ん中に野球のマウンドがあって使えず、隣町のコートまでバスで通っての練習や、別の年には夏までに完成するはずのコートが未完成で皆でコート作りや線引きをして完成させるなどに悩まされた。そのこともあって毎年設備の整った同じ場所での合宿を行うようになり、10年近くは軽井沢、その後は山中湖に移り現在も続いている。
軟庭部に再び関わるようになったころは部員も徐々に増えつつあり、強い選手も1-2組はできるが部の成績としては伸び悩んだ印象であった。これには我々の現役時代と比べて講義・実習、それにカリキュラムが替わり練習機会の減少も一因と思われた。その頃“全日本の軟庭のコーチが本学に来る”とのうわさを聞き、一時的なコーチとして訪問するものと思っていた。ところがほどなくその先生が教養部体育の講師として赴任された聞いて驚きとともに大変うれしく感じた。その水野先生が赴任されてしばらくは直接お会いする機会がなかったが、夏合宿や中野杯で部員たちの練習への取り組みや技術の向上を目指す態度が変わってきたことに気づかされた。そして直接お会いしてみるとまさしく清潔で若々しいスポーツマンで少しも自分の技術面をひけらかすことなく、気さくで本学の学生諸君に少しでもテニスが好きになる、強くなるようにしたいとの熱意が感じられて、すぐに意気投合したことが思い出される。現役執行部が“今年の成績は2位が〇回、3位が△回”などと報告すると、水野先生と二人で”2位も最下位も同じ、優勝しなければ意味がない!“とはっぱをかけたものである。水野先生は赴任当初は全日本のコーチとの兼務もあり、又本学体育の教師として、ソフトテニスだけでなく教養部全体の運動・体育の業務と多忙な日々を過ごしていたと思われる。その合間を縫ってソフトテニス部の日々の練習だけでなく試合当日も会場に来られて適切なアドバイスをされるようになった。その後先生のご指導のお陰もあって経験者や実力者の入部が続くようになって数々の大会で優秀な成績を収めるようになって今日に続いている。又先生の指導は初心者に対してもわかりやすい技術指導にも表れテニスへの親しみと継続の大切さを教え込まれてきたことが挙げられる。先生の本学への着任は丁度軟式庭球からソフトテニスと名称が使われ始めたころであり、先生はまさしく新しい時代を我々の部にもたらしてくれたともいえる。ソフトテニスは硬式に比べて国際性に乏しく、練習コートも減少傾向で”何となく古い印象“もあって本学のソフトテニス部も存続が危ぶまれる事態も懸念されたが水野先生のお陰で今日も多くの部員と実力を備えて立派に活動が続いていることを大変うれしく、かつ頼もしく思っております。
水野先生、40年近くに渡り本学軟庭部・ソフトテニス部をご指導賜り、部の1先輩として心から御礼を申し上げます。先生は無事に定年を迎えられましたが、まだお年は60代の半ばです。人生100年時代を迎えている日本ではまだまだ先生の活躍の場が待っています。これからの人生がさらに充実し発展されるとともに今後のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
最後に現役部員の皆さんへお伝えしたい。ソフトテニス部は田中雄二郎現学長を始め、本学や他大学において理事・名誉教授・教授をたくさん輩出しております。この部に所属した先輩たちは真面目で優秀な努力家が多く、卒業後もそれぞれの分野で堅実に長年努力と研鑽を粘り強く重ね立派な仕事をされてきております。これには部の持つ雰囲気が大いに寄与しているものと確信しております。皆さんもこの部に所属したことに誇りをもって学生生活を有意義に過ごし卒業後それぞれの分野で活躍されることを心から祈念しております。

平岡 昌和先生

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